わたしの生きる道
第33話 ロンドンのにぎわいを私は知らない

そうこうするうちに半年がたち、日常会話には不自由しないようになった。しかしそんな会話力ではビジネス社会で通用しない。ちゃんとした学校で勉強するためロンドンに移ったのは70年のこと。私は35歳になっていた。籍を置いた「ウエスト・ロンドン・カレッジ」は日本の専門学校のようなものだ。
カレッジは繁華街のオックスフォード・ストリートにあったが、お金がない私にとって、華やかなウインドーもおしゃれな服を着たマネキンも遠い景色にすぎなかった。
カレッジでは秘書のコースに入ってビジネス英語やマナーを学んだ。何ごとにも夢中になる私は疑問も不満も持たず、勉強だけをしていた。
下宿の裏にあった広い芝生の庭。駆け回る大きな犬。生け垣のバラ。覚えているのは下宿の光景だけで、ロンドンのにぎわいを私は知らない。
(日本経済新聞朝刊2013年6月12日掲載の『私の履歴書』より引用)