わたしの生きる道

第31話 日本人は私だけだった

チューリヒを留学先に選んだのは日本人の友人夫妻が住んでいるからだった。初めての外国で頼れる人がいないのは心細かったし、多言語国家のスイスのことだから、語学学校にさえ入れば英語を学ぶこともできるだろうと、根拠もなく思っていた。

しかしチューリヒはドイツ語圏にあって、私が入った語学学校は、仕事の必要からドイツ語を学ぼうという欧米人のためのものだった。ともかく毎日授業に出たが全然ついて行けない。教室で教師が私の顔をのぞき込み「大丈夫?」と聞いた。

そのうち友人が商社マンの夫の転勤に伴って、チューリヒを離れることになった。1人になるのは心細かったが、英語力が身につかないまま日本に帰ることはできない。そこで1969年8月、英国に行くことにした。次の留学先はロンドンから南西に約170キロ離れたボーンマスという町。イギリス海峡を望む保養地で、英会話学校がいくつもある。下宿は石造りの3階建ての民家だった。1階のリビングを囲んで個室が3つか4つある。私はその1室をあてがわれた。

語学学校は下宿から歩いて15分ほどのところにあった。欧州やアフリカの各国から生徒が集まる初心者クラスで、母国語も様々だった。もちろん日本人は私だけだった。

(日本経済新聞朝刊2013年6月12日掲載の『私の履歴書』より引用)