わたしの生きる道

第28話 留学したい 振り切るように会社を辞めた

英会話を本格的に勉強しようと決めた私は、いくつかの英会話教室に入った。日本人教師の口まねをして英会話のフレーズを繰り返す。数学や物理と違って語学には方程式があるわけではない。音楽のように感性で暗記するのが楽しかった。

ほかの習い事も遊びもやめた。家に戻っても寝るまでテープを聴き、日曜は一日中、テープを回しっぱなしにした。東京オリンピックを巡る世間の熱狂も無縁だった。そんな私の中に衝動が生まれてきた。留学したい。外国で暮らしたい。

そのころ海外渡航は自由化されていたものの1ドル=360円の固定相場で、外国に行くことなど、将来を嘱望されたエリートの卵か金持ちでもなければ考えもしないことだった。しかし私は無謀とも高望みとも思わず、ただ留学したかった。

夫が商社マンの友人がスイスにいて文通していた。彼女を頼れば安心だ。それにスイスは多言語国家。英語の勉強もできるだろう。

母にその思いを打ち明けると、拍子抜けするほど簡単に「いいよ」と答えた。己拔(きばつ)兄は「反対しても欣子は行くだろう」と思ったのか、何も言わなかった。東洋電業の社長は私を気に入ってくれていて、退社を申し出ると強く慰留されたが、振り切るように会社を辞めた。

(日本経済新聞朝刊2013年6月11日掲載の『私の履歴書』より引用)