わたしの生きる道

第25話 痛むほほに手をあて ただうつむいていた。

大井町の駅にほど近い3畳1間のアパートに潜んで何日が過ぎたろうか。彼は不動産会社を経営しているから同業者に顔が広い。このアパートを簡単に探し出すかもしれない。そしたら私を無理やり連れ戻すかもしれない。

家から持って出たのは寝具とわずかな着替えだけだった。ラジオもない。包丁もない。といって買いそろえる気にもならなかった。アパートの小さな窓から、道行く人々の顔をひがな一日眺めていた。

たまに近所のラーメン屋さんから出前を取ることもあったが、普段は人目を避けるようにしてできあいの物を買い、ぼそぼそと食べた。

公衆電話で母に事情を知らせると、ほどなく母が近所までやって来た。待ち合わせて喫茶店で向き合った母は少しも私を責めず、黙って話を聞いてくれた。

それから横浜の家に戻った。結婚式場まで探してくれた己拔(きばつ)兄は、私を見るなり「あんなヤツにだまされやがって。だから反対したんだ」と叫ぶと同時に、平手で私のほほを打った。私は倒れそうになったが、何も言えず痛む左のほほに手のひらを当てて、ただうつむいていた。

(日本経済新聞朝刊2013年6月9日掲載の『私の履歴書』より引用)