わたしの生きる道

第24話 手紙も置かずに家を出た。

ふと考えた。私は婚姻届に判子を押していない。いや見てもいない。式を挙げて一緒に暮らすようになれば、それで夫婦になるのだと思っていた。無知といえば無知。でも家族や親戚を大勢招いて式を挙げていながら籍を入れない方がおかしくはないのか。

挙式の前に彼から聞いた話、彼が兄に言っていたこと、それから最近の彼の言動をつなぎ合わせると、あることが浮かんできた。

彼には奥さんがいる。心は離れているし彼は離婚したがっているのに、奥さんが離婚に応じない。いずれ離婚が成立したら私を籍に入れるつもりで同居を始めた。

そういうことなの?それならいまの私は、どういう存在なのだろう。

同居を始めて2、3カ月がたっていた。彼に対する気持ちは風船が破裂したみたいにしぼみ、心は凍えていった。「こんな男とは暮らせない。1日たりとも我慢できない」

彼が留守のすきに大井町まで出かけ、不動産業者に紹介された3畳1間のアパートを借りた。次に彼が遠出するとわかっていた日を指定して運送業者の車を手配した。

その日、家の裏口に止まったライトバンに少しばかりの荷物を積んで、手紙も置かずに家を出た。

(日本経済新聞朝刊2013年6月8日掲載の『私の履歴書』より引用)