わたしの生きる道

第20話 破談の傷心を癒すためにも働いた。

傷心は簡単に癒えなかった。だが会社を辞めている私はお金を稼がなければならなかった。仕事を探そうと新聞の求人欄に目を凝らした。

その中で蒲田にあった東洋電業という会社が秘書を募集しているのを知った。3年前に創業したばかりの鋼管専業メーカーで、前の会社に比べればこぢんまりしているが、いまの私には静かな職場の方がよさそうに思えた。

面接に行くと多少英語が話せるせいか、すんなりと採用が決まった。間もなく横浜の自宅から蒲田、会社が移転してからは新橋まで電車を乗り継いで通う生活が始まった。

秘書の仕事が嫌いではなかったし、会社の役員や社員もいい人たちばかりだった。社長の車で船橋の工場に行くのも楽しかった。破談で傷ついた心も、少しずつ元の明るさを取り戻していった。

長兄の秀夫が31歳でこの世を去ったのは東洋電業に入社した翌年の1958年11月17日のことだった。幼いときから喘息(ぜんそく)に苦しんでいた。夜であろうと昼であろうと、発作が起きると空気を求める肺が風船のように膨らんだり縮んだりを繰り返す。

そのたびに両親は兄の背中をさすり、ただ発作が治まるのを祈るように見守っていた。学校は何とか出たものの、就職しても月のうち1週間は休むから長続きしない。

(日本経済新聞朝刊2013年6月7日掲載の『私の履歴書』より引用)