わたしの生きる道

第11話 初任給8,000円 かがって大事に履いたストッキング

私の仕事は課長の秘書みたいなもので、課長がドアを少し開けて「ちょっと篠原君」と呼ぶたびに席を立って小走りで向かう。すると小さな風がおこってスカートがふわりと広がった。課長はハンサムで背が高くてかっぷくが良くて、亡くなった父の面影も少し見えるようで、私は淡いあこがれを抱いていた。私の名は「よしこ」なのだが、職場では「きんこちゃん」と呼ばれた。

工場には東横線の元住吉駅から30分ほど歩いて通った。道はまだ舗装されていなくてデコボコだったせいで、ハイヒールのかかとがすぐにだめになった。工場に着くとストッキングと靴を脱いでサンダルに履き替えた。そうしていても高価な絹のストッキングに穴があく。初任給8,000円だった私は、自分でかがって大事に履いた。

工場にはザリガニがいっぱいいる池があった。そのそばのコンテナの影がカップルのデートの場になっていた。私にも男友達は何人かいたが、恋愛とかではなくてただの遊び仲間だった。

(日本経済新聞朝刊2013年6月4日掲載の『私の履歴書』より引用)