わたしの生きる道

第6話 学校に行くのをやめた

1945年になると家の上空を米軍の爆撃機B29が頻繁に飛ぶようになった。やがて横浜や東京辺りの夜空がボーっと明るくなる。その年8月15日、ラジオから流れる天皇陛下の声を家の縁側で聞いた。母の「戦争が終わった」という声が、せみ時雨の中からぼんやりと耳に届いた。といっても私が生まれ育った神奈川県都筑郡中里村小山、いまの横浜市緑区小山町は空襲を受けたわけではなかったから、終戦後も里山が連なる田園の村は、何が変わるということもないまま静かに日々が過ぎていった。

そうこうするうちに、私は山下国民学校初等科6年を終え1947年春、新制谷本(やもと)中学の1期生となった。谷本中学は少しはにぎやかな中山の駅前とは反対側にあった。人家もまばらな道をたどり、小高い山を越えて行かなければならない。

毎朝40分の通学はつらくなかったのだが、集団登校で一緒になる近所の男の子たちが、遅刻も気にせず道草を食うのだけがいやだった。いいかげんさが許せない。1年間は我慢した。しかし2年生になるとこらえきれなくなり、学校に行くのをやめた。

1週間か10日ほどたって、担任の先生が我が家を訪ねてきた。奥の部屋に隠れていると、玄関先から先生と母の声が交互に聞こえてくる。しばらくして母が私のところにやって来て言った。「先生と直接お話ししなさい」「いや」

(日本経済新聞朝刊2013年6月2日掲載の『私の履歴書』より引用)