わたしの生きる道

第1話 覚えているのは最期の日

東京のアパートの1室に「テンプスタッフ」の看板を掲げたのは38歳のときだった。まだ「人材派遣」という言葉も法律もなかった。

それから40年。節目の年に来し方を振り返ると、不思議なことに父の記憶がほとんどない。はっきり覚えているのは、父が亡くなった日のことだけだ。父・篠原善太郎は1943年7月14日、50歳の若さで世を去った。4つの部屋が田の字になっている我が家の1室に父の亡きがらが横たわり、ふすまを開け放った隣室に5人の子どもが座っていた。

8歳だった私に父の死は何の現実味もなく、膝に置いた拳を握りしめて泣く3歳上の次兄、己抜(きばつ)を横目に見ながら「お兄ちゃんはいつも威張っているのに、どうして泣くんだろう。お父さんが死んでもお母さんがいるからいいじゃない」と思っていた。

父のひつぎを4人の大人が担ぎ、読経する僧侶に従って家の庭を何度か回った。そして出棺。母は涙をこらえて野辺の送りの列に加わった。

横浜市立新治国民学校の5代目校長だった父は、胃がんを患っていた。

リヤカーに寝かせられ、歩いて30分ほどの横浜線中山駅に運ばれて行った光景をおぼろげに覚えている。
横浜辺りの病院で開腹手術をしたものの、すでに手の施しようがなく、家で闘病していたが、夏を迎えて帰らぬ人となった。

(日本経済新聞朝刊2013年6月1日掲載の『私の履歴書』より引用)