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(情報掲載日:2020年2月10日)


2024年に刷新される一万円札の肖像画に選ばれた渋沢栄一は、「日本の資本主義の父」とも呼ばれている人物です。2月13日は渋沢栄一の生誕180年にあたります。明治維新後の時代に数多くの企業の設立や運営、社会事業や教育事業の推進に携わり、幅広く活躍してきた偉人の生き方から、仕事や人生のヒントを探してみませんか。

●設立した会社などの足跡

渋沢栄一は、江戸時代の終盤の1840年に現在の埼玉県深谷市の農家に生まれました。染料の製造や販売の他に養蚕も行っていた実家を手伝い、父や親戚からは算盤、論語をはじめとする儒教の基本書物を学んで、幼い頃からいろいろな知識を身に付けていきます。
故郷を離れた後に、江戸幕府最後の将軍・一橋慶喜に仕えたことを機に次第に頭角を表し、パリの万国博覧会をはじめ欧州諸国を随行しました。先進的な産業や社会のあり方に触れて大きな刺激を受けます。
明治維新後には、欧州での見聞を新政府の中で役立ててほしいと、明治政府の中心人物である大隈重信から説得されて、大蔵省で働き始めます。郵便制度の創設、鉄道の敷設、関税率の制定など、近代国家を形成するための基盤作りに携わりました。

大蔵省を去った後は、民間人として「第一国立銀行」(現みずほ銀行)の総監役に就任し、多くの企業の創設や育成に力を注いでいきます。例えば、王子製紙、キリンビール、帝国ホテル、東急電鉄、東京海上日動火災保険、東京ガス、東洋紡績など、現在もよく知られている企業をはじめ、500社近くもの創業に関わりました。素材、食品、宿泊、鉄道、保険、エネルギー、通信社、医療関係など、業界に偏らずに広い範囲で支援を行ったことが特徴的です。

●経世済民、公益追求というベース

渋沢が貫いた信念の一つが「経世済民(けいせいさいみん)」です。「経」には「治める」、「済」には「救う」という意味があり、「世の中を治め、国民の苦しみを救うこと」を表す言葉です。道徳仁義を重んじ、社会全体の豊かさが実現されるような経営を渋沢は重視しました。中央だけではなく地方にも足を運んで、各地の鉄道会社や、港湾、インフラ関連の会社の立ち上げなどに関わります。

私利私欲を追わずに公益を目指すことを意味する「公益追求」という考えも貫き通しました。当時は、財閥が急速に成長を遂げていく時期でしたが、一族で資産を所有する、要職を固めるといったことはしませんでした。民間から出資を募る株式会社の形態を選んで、開放的な経営を図ります。さらに、有能な人材を探し出しては各社の経営層に登用して経営を任せ、産業を振興させていきました。

また、当時アメリカ本土で起こった日本人の移民を排斥するような動きを知ったことから、渋沢は情報の重要さにも着目します。日本人に関する認識に誤解を与えないよう、正しく理解してもらうために、海外に向けてニュースを配信する通信社を設立しました。現在の時事通信社や共同通信社の起源となっています。

●携わった大学や慈善事業

当時はまだ、政府や官僚は尊く、民間人はそれに従う存在として扱うという「官尊民卑」の考えが強くありました。この思想を打開して民間人に道を切り拓くために、渋沢は企業へ優秀な人材を送り出すことを目的に据えて、商業教育や私立学校を多数支援しました。
当時は商人に教育は不要という偏見が残っていましたが、文部省など各方面への説得を長年続けて、商業系の授業内容の充実や大学の創立を実現させます。現在の一橋大学、東京経済大学、早稲田大学、二松學舎大学などの創立や運営にも関わりました。商業に従事する人材を輩出し、民間人の地位を向上させたと言えます。
女子教育の必要性についても提唱して、伊藤博文、勝海舟らと共に女子教育奨励会を作り、日本女子大学や東京女学館の創立にも関与しています。

社会活動にも渋沢は尽力します。社会福祉事業の先駆的存在である養育院(現在の東京都健康長寿医療センター)の初代院長を務めました。これは、徳川幕府が残した貧民を救済する仕組みを継承した組織ですが、財政難を克服させて、当時の東京府の貧困救済事業の中核となりました。実業界を退いた後も亡くなるまでの60年近くの間、院長として在職して積極的な慈善活動を続け、毎月各地の分院を訪れて障がい者やホームレスと対話をしたと伝わっています。この他、東京慈恵会、日本赤十字社の前身である博愛社などの発足にも携わりました。
社会活動は持続させることこそ重要であり、計画的、組織的、経済的に行われなくてはならないという渋沢の方針の結果、今でも数多くの組織が存続しています。約600もの教育機関や社会的事業に取り組んだという実績が高く評価され、明治政府からは子爵の爵位を与えられました。

●関東大震災での活動

1923年に起こった関東大震災の後には、復興計画を立てて奔走します。被災者の支援のために、収容所の設置、炊き出し、掲示板の設置、臨時病院の設営など、もともとは労使協調のために編成された組織のネットワークを駆使して活動を率いました。
支援活動に必要な義援金を集めるためには、政財界が一緒に協力し合う組織を設けて募金活動を繰り広げました。さらなる被災者の支援を求めて、渋沢はアメリカへも働きかけます。大企業の関係者、商工会議所などいくつかの組織、教会関係者などに呼びかけたところ、莫大な金額が送られてきました。渋沢の国内での活動がいかにアメリカで知られ尊敬されていたのかを示すエピソードと言えます。
政府の要人が参画していた国の復興計画にも、民間人として加わりました。物品や旅客の往来の活性化を目指した港や運河の造成を提案し、商業都市として東京を復興させていくことを主張したと伝えられています。

●道徳経済合一、論語と算盤

渋沢は多くの優れた言葉を残しています。経済と道徳の両立を説き、道徳と経済は一致しなければならないということを表した言葉が「道徳経済合一」です。これは、道徳が欠けているのであれば、経済的な発展をどれだけ遂げたとしてもいずれ争いが起こって経済は崩壊してしまい、逆に、経済的な支援の伴わない道徳というのは、いくら心持ちは素晴らしくとも社会や人を本当に救うことはできない、という意味です。どちらかに偏るとひずみが生じてしまうために物心両面の調和が望ましいことを示唆しています。

「道徳経済合一」と似た意味合いを持つ「論語と算盤(そろばん)」という言葉は、公益を追い求める「倫理」と、合理的な判断基準のもとになる「利益」の両立を表したものです。渋沢が幼い頃から学んだ論語をベースにして経営哲学を語った著書のタイトルにもなっており、ビジネスパーソンのバイブル、不朽の名著と言われています。この考え方は、企業が慈善活動や社会事業を重んじるというCSR(企業の社会的責任)、社会的な課題の解決と企業利益の両立を目指すというCSV(共通価値の創造)というキーワードとして、近年の企業経営の中でも広まっています。

他にも、数々の名言は著書や関連本の中にあふれています。その中からほんの一部、人生や仕事に関するものをご紹介します。

「人は死ぬまで同じ事をするものではない。理想にしたがって生きるのが素晴らしいのだ」
「全て形式に流れると精神が乏しくなる。何でも日々新たに、という心がけが大事」
「真似をするときには、その形ではなく、その心を真似するのがよい」
「事業には信用が第一である。世間の信用を得るには、世間を信用することだ。個人も同じである。自分が相手を疑いながら、自分を信用せよとは虫のいい話だ」
「今までの仕事を守って間違いなくするよりも、さらに大きな計画をして発展させ、世界と競争するのがよい」

●海外でも評価される考え

現代経営学の父として世界的に知られているピーター・ドラッカーは「経営の社会的責任について論じた歴史的人物の中で右に出るものを知らない」「世界の誰よりも早く、経営の本質は責任に他ならないということを見抜いていた」と渋沢を高く評価しています。アメリカの大学では、渋沢栄一の名を冠した講座が設けられたり、「論語と算盤」をテーマにした議論も行われています。

十数年前には中国のある大学に、渋沢栄一研究センターが設立されました。毎年、各国の研究者が集まり、倫理観が国際関係に与える意義や、渋沢の人生と活動が持つ意味と広がりに関する考察など、さまざまな講義が開かれています。著書「論語と算盤」は四半世紀前に中国語に訳され、後年には新訳も出版されるほど、事業家の必読書として読み継がれています。

グローバル化が進んだ現代、渋沢が実践してきた開かれた経営を求める機運がいっそう高まっています。また、社会の一員としての経営者が目指す理想形として、倫理と利益の両立も重要視されています。時代が変わっても、今なお注目されている渋沢栄一の生き方を通じて、私たちはたくさんの気づきや学びを得ることができます。

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